*年頭において、「一本の糸」について。

ノブヒロック。

2012年01月08日 05:06

*前々回まで「世間は広がっている。」というタイトルで綴った、
ここ数年の出来事。
一見あちこちに散らばっているように見える糸も、
実はつながっていたり、意外なところで結びついたり。
そんなことを考えるようになった「きっかけ」の本を紹介したいと思います。

坪内祐三氏による『ストリートワイズ』という評論集です。


「ストリートワイズ」において、坪内氏はこう述べています。

そろそろ、「一本の糸」について語りたい。

私たちと私たちを越えたものを結びつける「一本の糸」について。

それは世界観というほど大げさなものではない。

ここで改めて強調しておきたいのは、この「一本の糸」は、

あくまで個別的なものであるということだ。

「一本の糸」はシステム化できない。

いや、システム化しようとしたその瞬間、

その「一本の糸」は切れ、永遠に結び直すことはできない。

『若い芸術家の肖像』のジェイムズ・ジョイスなら、

この「一本の糸」のことをエピファニーと言うだろう。

私がそれまでおぼろげに感じていたこの「一本の糸」について、

たしかな像が結べるようになったのも、

やはり『アポカリプス論』のおかげである。



「ある瞬間、なにかがこころを打つてきたとする

さうすればなにがなんでも神となるのだ。

もしそれが湖沼の水であるとき、

その湛湛たる湖沼が深くこころを打つてこよう、

さうしたらそれが神となるのだ。

あるいは青色の閃光が突如として

意識をとらえることがあるかも知れない、

さうしたらそれが神となるのだ。

ときには夕暮れに地上から立ちのぼるかすかなかげろうふが

吾吾の想像をとらへることもあらう、それがテオスであった。

あるいはまた水を前にして渇き

にはかに抑えがたきことがあるかも知れぬ、

そのとき渇きそれ自身が神なのである。

その水に咽をうるほし、甘美な、なんともいへぬ快感に

渇きが医されたなら、今度はそれが神となる。」

『アポカリプス論/D・H・ロレンス』(訳:福田恆存)より


個人的には、一番さまざまな出来事を経験したといえる、
「中崎町」という、ミラクルな町においての、
多種多様な人々との出会いは まさに、以下のことのようであった。


「街を一つの大きな学習の場として、その学習の場を、

時に自分を見失いそうになりながら、さ迷い歩いて行くうちに、

獲得した知識や知恵、それがストリートワイズだ。

しかも、街をさ迷っていると、その迷路のような道すじで、

ある時突然、

まさに路上の賢者(ストリートワイズ) といえそうな人(物)に出会い、

彼らの手招きによって、

気がつくと、自分で目指していた以上の場所にいる。

自分の直感を信じてアクションを起こさないと

ストリートワイズは生まれない。

地図やマニュアルは、アクションを起こすきっかけにはなっても、

それだけでは路上の賢者(ストリートワイズ)に出会えない。

街で生きる知恵(ストリートワイズ)を手に入れることは出来ない。」



*最後に、まとめとして、また引用します。



『たしかに「一本の糸」は今や切れそうである。

しかし、糸はまだ切れていないはずだ。

誰もがこの世界にたった一人で在ることを自覚して、

その一人の責任と選択において、世界の「偶然性」を深く認識しながら、

ささやかな「テオス」との出会いを求めていけば。

そして、そのような個を確立することが、

たぶん、身のほど知らずに大き過ぎる世界観をもった集団

に属した者たちに対峙する唯一のものだろう。』

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