*前々回まで「世間は広がっている。」というタイトルで綴った、
ここ数年の出来事。
一見あちこちに散らばっているように見える糸も、
実はつながっていたり、意外なところで結びついたり。
そんなことを考えるようになった「きっかけ」の本を紹介したいと思います。
坪内祐三氏による『
ストリートワイズ』という評論集です。
「ストリートワイズ」において、坪内氏はこう述べています。
そろそろ、「
一本の糸」について語りたい。
私たちと私たちを越えたものを結びつける「一本の糸」について。
それは世界観というほど大げさなものではない。
ここで改めて強調しておきたいのは、この「一本の糸」は、
あくまで個別的なものであるということだ。
「一本の糸」はシステム化できない。
いや、システム化しようとしたその瞬間、
その「一本の糸」は切れ、永遠に結び直すことはできない。
『若い芸術家の肖像』のジェイムズ・ジョイスなら、
この「一本の糸」のことをエピファニーと言うだろう。
私がそれまでおぼろげに感じていたこの「一本の糸」について、
たしかな像が結べるようになったのも、
やはり『アポカリプス論』のおかげである。
「ある瞬間、なにかがこころを打つてきたとする
さうすればなにがなんでも神となるのだ。
もしそれが湖沼の水であるとき、
その湛湛たる湖沼が深くこころを打つてこよう、
さうしたらそれが神となるのだ。
あるいは青色の閃光が突如として
意識をとらえることがあるかも知れない、
さうしたらそれが神となるのだ。
ときには夕暮れに地上から立ちのぼるかすかなかげろうふが
吾吾の想像をとらへることもあらう、それがテオスであった。
あるいはまた水を前にして渇き
にはかに抑えがたきことがあるかも知れぬ、
そのとき渇きそれ自身が神なのである。
その水に咽をうるほし、甘美な、なんともいへぬ快感に
渇きが医されたなら、今度はそれが神となる。」
『アポカリプス論/D・H・ロレンス』(訳:福田恆存)より
個人的には、一番さまざまな出来事を経験したといえる、
「中崎町」という、ミラクルな町においての、
多種多様な人々との出会いは まさに、以下のことのようであった。
「街を一つの大きな学習の場として、その学習の場を、
時に自分を見失いそうになりながら、さ迷い歩いて行くうちに、
獲得した知識や知恵、それがストリートワイズだ。
しかも、街をさ迷っていると、その迷路のような道すじで、
ある時突然、
まさに路上の賢者(ストリートワイズ) といえそうな人(物)に出会い、
彼らの手招きによって、
気がつくと、自分で目指していた以上の場所にいる。
自分の直感を信じてアクションを起こさないと
ストリートワイズは生まれない。
地図やマニュアルは、アクションを起こすきっかけにはなっても、
それだけでは路上の賢者(ストリートワイズ)に出会えない。
街で生きる知恵(ストリートワイズ)を手に入れることは出来ない。」
*最後に、まとめとして、また引用します。
『たしかに「一本の糸」は今や切れそうである。
しかし、糸はまだ切れていないはずだ。
誰もがこの世界にたった一人で在ることを自覚して、
その一人の責任と選択において、世界の「偶然性」を深く認識しながら、
ささやかな「テオス」との出会いを求めていけば。
そして、そのような個を確立することが、
たぶん、身のほど知らずに大き過ぎる世界観をもった集団
に属した者たちに対峙する唯一のものだろう。』