2012年01月08日
*年頭において、「一本の糸」について。
*前々回まで「世間は広がっている。」というタイトルで綴った、
ここ数年の出来事。
一見あちこちに散らばっているように見える糸も、
実はつながっていたり、意外なところで結びついたり。
そんなことを考えるようになった「きっかけ」の本を紹介したいと思います。
坪内祐三氏による『ストリートワイズ』という評論集です。
「ストリートワイズ」において、坪内氏はこう述べています。
そろそろ、「一本の糸」について語りたい。
私たちと私たちを越えたものを結びつける「一本の糸」について。
それは世界観というほど大げさなものではない。
ここで改めて強調しておきたいのは、この「一本の糸」は、
あくまで個別的なものであるということだ。
「一本の糸」はシステム化できない。
いや、システム化しようとしたその瞬間、
その「一本の糸」は切れ、永遠に結び直すことはできない。
『若い芸術家の肖像』のジェイムズ・ジョイスなら、
この「一本の糸」のことをエピファニーと言うだろう。
私がそれまでおぼろげに感じていたこの「一本の糸」について、
たしかな像が結べるようになったのも、
やはり『アポカリプス論』のおかげである。
「ある瞬間、なにかがこころを打つてきたとする
さうすればなにがなんでも神となるのだ。
もしそれが湖沼の水であるとき、
その湛湛たる湖沼が深くこころを打つてこよう、
さうしたらそれが神となるのだ。
あるいは青色の閃光が突如として
意識をとらえることがあるかも知れない、
さうしたらそれが神となるのだ。
ときには夕暮れに地上から立ちのぼるかすかなかげろうふが
吾吾の想像をとらへることもあらう、それがテオスであった。
あるいはまた水を前にして渇き
にはかに抑えがたきことがあるかも知れぬ、
そのとき渇きそれ自身が神なのである。
その水に咽をうるほし、甘美な、なんともいへぬ快感に
渇きが医されたなら、今度はそれが神となる。」
『アポカリプス論/D・H・ロレンス』(訳:福田恆存)より
個人的には、一番さまざまな出来事を経験したといえる、
「中崎町」という、ミラクルな町においての、
多種多様な人々との出会いは まさに、以下のことのようであった。
「街を一つの大きな学習の場として、その学習の場を、
時に自分を見失いそうになりながら、さ迷い歩いて行くうちに、
獲得した知識や知恵、それがストリートワイズだ。
しかも、街をさ迷っていると、その迷路のような道すじで、
ある時突然、
まさに路上の賢者(ストリートワイズ) といえそうな人(物)に出会い、
彼らの手招きによって、
気がつくと、自分で目指していた以上の場所にいる。
自分の直感を信じてアクションを起こさないと
ストリートワイズは生まれない。
地図やマニュアルは、アクションを起こすきっかけにはなっても、
それだけでは路上の賢者(ストリートワイズ)に出会えない。
街で生きる知恵(ストリートワイズ)を手に入れることは出来ない。」
*最後に、まとめとして、また引用します。
『たしかに「一本の糸」は今や切れそうである。
しかし、糸はまだ切れていないはずだ。
誰もがこの世界にたった一人で在ることを自覚して、
その一人の責任と選択において、世界の「偶然性」を深く認識しながら、
ささやかな「テオス」との出会いを求めていけば。
そして、そのような個を確立することが、
たぶん、身のほど知らずに大き過ぎる世界観をもった集団
に属した者たちに対峙する唯一のものだろう。』
ここ数年の出来事。
一見あちこちに散らばっているように見える糸も、
実はつながっていたり、意外なところで結びついたり。
そんなことを考えるようになった「きっかけ」の本を紹介したいと思います。
坪内祐三氏による『ストリートワイズ』という評論集です。
「ストリートワイズ」において、坪内氏はこう述べています。
そろそろ、「一本の糸」について語りたい。
私たちと私たちを越えたものを結びつける「一本の糸」について。
それは世界観というほど大げさなものではない。
ここで改めて強調しておきたいのは、この「一本の糸」は、
あくまで個別的なものであるということだ。
「一本の糸」はシステム化できない。
いや、システム化しようとしたその瞬間、
その「一本の糸」は切れ、永遠に結び直すことはできない。
『若い芸術家の肖像』のジェイムズ・ジョイスなら、
この「一本の糸」のことをエピファニーと言うだろう。
私がそれまでおぼろげに感じていたこの「一本の糸」について、
たしかな像が結べるようになったのも、
やはり『アポカリプス論』のおかげである。
「ある瞬間、なにかがこころを打つてきたとする
さうすればなにがなんでも神となるのだ。
もしそれが湖沼の水であるとき、
その湛湛たる湖沼が深くこころを打つてこよう、
さうしたらそれが神となるのだ。
あるいは青色の閃光が突如として
意識をとらえることがあるかも知れない、
さうしたらそれが神となるのだ。
ときには夕暮れに地上から立ちのぼるかすかなかげろうふが
吾吾の想像をとらへることもあらう、それがテオスであった。
あるいはまた水を前にして渇き
にはかに抑えがたきことがあるかも知れぬ、
そのとき渇きそれ自身が神なのである。
その水に咽をうるほし、甘美な、なんともいへぬ快感に
渇きが医されたなら、今度はそれが神となる。」
『アポカリプス論/D・H・ロレンス』(訳:福田恆存)より
個人的には、一番さまざまな出来事を経験したといえる、
「中崎町」という、ミラクルな町においての、
多種多様な人々との出会いは まさに、以下のことのようであった。
「街を一つの大きな学習の場として、その学習の場を、
時に自分を見失いそうになりながら、さ迷い歩いて行くうちに、
獲得した知識や知恵、それがストリートワイズだ。
しかも、街をさ迷っていると、その迷路のような道すじで、
ある時突然、
まさに路上の賢者(ストリートワイズ) といえそうな人(物)に出会い、
彼らの手招きによって、
気がつくと、自分で目指していた以上の場所にいる。
自分の直感を信じてアクションを起こさないと
ストリートワイズは生まれない。
地図やマニュアルは、アクションを起こすきっかけにはなっても、
それだけでは路上の賢者(ストリートワイズ)に出会えない。
街で生きる知恵(ストリートワイズ)を手に入れることは出来ない。」
*最後に、まとめとして、また引用します。
『たしかに「一本の糸」は今や切れそうである。
しかし、糸はまだ切れていないはずだ。
誰もがこの世界にたった一人で在ることを自覚して、
その一人の責任と選択において、世界の「偶然性」を深く認識しながら、
ささやかな「テオス」との出会いを求めていけば。
そして、そのような個を確立することが、
たぶん、身のほど知らずに大き過ぎる世界観をもった集団
に属した者たちに対峙する唯一のものだろう。』
Posted by ノブヒロック。 at 05:06│Comments(0)
│雑談